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2015年7月14日火曜日


~父の遺言~   舩越 ユカリ

2,3日前から、梅雨前線が消え、関東地方には梅雨明けのような猛暑がやってきました。気象庁は台風が片付くまで、梅雨明け宣言しないつもりのようですが、実質的には梅雨明け宣言した方が良いのではと思います。夏の最高気温がじわじわと高くなり、今年は40℃を超すのではないかと思います。東シナ海南方の海面温度が次第に高温になってきたのが原因の第一ではないでしょうか。北半球の北緯40°当たりの人口密度、産業活動の高さにより、海面温度が上昇しているのでしょう。温暖化は北半球の高緯度に顕著に表れています。
本日の講師は、横浜市青葉区倫理法人会 幹事の舩越 ユカリ 氏です。舩越 氏のご主人は、青葉区倫理法人会の会長歴任者でもあられ、現在は相談役をされています。

最初に、石渡会長の3分間スピーチです。

 「毎回の会長スピーチで、最初に私が号令を掛けながら講師を讃え、紹介しています。最近、これが板についてきて、鎌倫の皆さんにも賛同を頂いていると思っています。名知さんのミャンマー医療支援が、テレビ東京で放映され、お陰様で寄付金が少しずつ入って来るようになりました。恵まれないミャンマーの子供たちが少しでも救われ、衛生環境が向上し、病気で亡くなるという痛ましい事態から救われるために、私たちもできる限りの支援をしたいと思います。」

次に、九州での最先端癌治療(重粒子線照射法)が一段落し、久し振りにお見えになった白木副会長のご挨拶がありました。


「家内からの強い勧めで人間ドックに入ったところ、前立腺癌(ステージ4.5)が見つかりました。知人友人を頼って、最先端の治療を待機時間なしに受けられる幸運に恵まれ、九州で治療が完了しました。転移がなければ、90%以上の確率で健康体に戻れるようで、神様が時を与えてくださったと感謝しています。患者さんの中には、2年ほど前に娘さんから高額医療保険(2千万円)をプレゼントして貰った幸運の方もおられ、娘さんの心根に感動しました。」
次は、7月に誕生日を迎える皆川副会長と、蔵多のり子会員に、ハッピバースディの歌を唄ってのお祝いです。

藤生会員の3分間スピーチです。

「私は、愛する妹を外国で事件に遭って亡くしました。しばらくの間、理不尽な妹の死を受け入れることができませんでした。しかし、年月を経て、そのことに拘り続けることが、自分自身を前向きにすることができない原因ではないかと思うようになりました。
最近、郷里の山形テレビに勤務する先輩から連絡がありました。そのようなご縁で運が開けてくれるようなことがあればいいなぁと期待している今日この頃です。」

 いよいよ、舩越 氏の講話です。
「昭和13年生まれの父は、先代が経営していた町工場(京都にあって、戦前は零戦の部品を機械加工していた)の社長を昭和55年(42歳)に引き継ぎました。父母と16歳の私、11歳の弟の4人家族で、工場の2階が住処でした。その頃、武家の出身らしく、習い事は、お茶、お花、舞踊などでした。大学も花嫁修業として稼ぎにはならない?短大に入りました。

順風満帆に見えた会社も、3年ほどして、重要な得意先からの注文が来なくなり、ある日突然手形が切れなくなり、倒産したのです。乗用車の屋根に積めるだけの家財を詰め込んで夜逃げしました。大阪の姉の家に転がり込んだのです。父はこの騒動で歩けなくなり、母は生活のために、弁当屋さん等で働き、収入を確保しました。しかし、直ぐに債権取り立て屋が私たちを探し出し、私(19歳)と弟(14歳)をどこかに売り飛ばそうとして身柄を確保しそうになりました。咄嗟に弟と逃げ出し、宇治に住む母の弟の所に逃げ込みました。が、そこも危険が迫っていたので、京都の友人の一人住まいアパートに入れて貰いました。3人では住めない狭い場所でしたので、しばらくしてそこも出なくてはいけませんでした。

私は父を恨みました。そして、手に職をつけない母のようにはなりたくないと思いました。稼げる女性、独り立ちできる女性を目指し、短大をやめ、『出世と稼ぎ』を目標として、英語の専門学校に入り直しました。弟も定時制の高校に入りました。

その後、海外と取引する色々な会社に就職し、英語力を活かして世界を股にかけ(中国、香港、アメリカなど)、営業ウーマンとして働いてきました。そして、横浜に住みつき、現在の夫と出会い、私の方から一緒になりたいと申し出ました。今は夫婦で(株)メイクリーンを経営しています。父は49歳で離婚、64歳で永眠しました。それから13年経ち、父へのわだかまりも消え、受け入れることができるようになりました。」


この後、オリーブの木で美味しい朝食を頂きがら、一人ずつ感想を述べ合いました。お父上の経営する町工場が、ある日突然破産し、生活自体が一変するという波乱万丈の人生を送られ、それにもめげずに世界に通用する人材として頑張って来られた舩越氏が、現在のご主人と出会い、倫理というかけがえのない価値観を共有して歩まれている姿は、まぶしく見えました。

この後恒例の人力車で鎌倉駅との間をご夫婦で往復されました。

平松 健男 記)

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