2014年11月4日火曜日


2014114日火曜日

本日のMSのテーマと講師は以下の通りです。

「陶芸あれこれ」             其中窯 陶芸家 河村 喜史 氏

寒冷前線と大陸からの季節風とによって、気温が目まぐるしく変化しています。おまけに超大型台風が近づいています。台風が日本海を横切れば、海底の冷たい海水が浮上し、日本海の表面は一挙に数℃低下し、その影響で季節風の温度も低下、結果的に日本列島が寒冷化します。由比ヶ浜公会堂への道は、益々薄暗くなりましたが、公会堂の中は寒さに負けない、温かい雰囲気が漂います。
6時からの役員朝礼に続き、6時半からMS開始です。
【石渡会長挨拶】「研修委員からの提案もあり、会員のモチベーション・実力アップを目的として、3分間スピーチ、ハーフタイムスピーチ、フルタイムスピーチ、他会でのスピーチなどを充実させたいと思います。」
 
「その際、スピーチ内容には、倫理活動や経験が具体的に入っていることが望ましいですね。私自身は、10月の目標(水泳千m/日)を既に実行し、目標を達成しました。今月は、それに加えて『風邪を引かないよう、うがいや手洗い』を決心しています。」

次は、中山会員の3分間スピーチです。
 
  

「今日の栞朗読箇所は、十条(働きは最上の喜び)です。75ページに、『人の喜びをわが喜びとする』いう一節があります。私は不動産業に就いて27年になります。商談中に色々と紆余曲折があっても、結果的に商談がまとまり、お客さんが笑顔になると、とても幸せな気持ちになります。ただ、27年間も同じような仕事をしていると、時に傲慢になり、お客さまを蔑んだりすることもあります。そのようなときに、最近は『その傲慢な天狗の鼻を折らないといけない。』と反省しています。」

 いよいよ河村 氏の講話です。

【河村 喜史(きふみ) 氏 の講話】

プロフィール:曽祖父の時代以前からの陶芸家。喜史 氏は愛知県生まれで、京都で育つ。京都粟田口で制作した粟田焼を御所に納入。祖父・河村喜太郎(18991966)が「陶芸家」という言葉を作る(それまでは、陶工と呼ぶ)。
 
祖父は、複数の陶工が分業して製品を作る京都の風習に馴染めず、京都を離れ豊田市猿投(さなげ)に陶房を開設、矢作川の近くに登り窯を新設。焼き物の素材(粘土)は、今でもその土地から得ている。父・又次郎(19302006)は、清水五条坂に陶房を開設して独立。一方、鎌倉の魯山人陶房跡を祖父喜太郎が再興。この陶房を「其中窯(きちゅうよう)」と命名。父の死去に伴い、2006年に喜史氏が其中窯を引き継ぎ、猿投から鎌倉に転居、現在に至る。日大芸術学部で、主として彫刻を学ぶ。各地の高島屋、その他で個展を開く。

「父は、焼き物の製造方法など、何も教えてはくれませんでした。そのことは、私の陶芸家としての成長を阻害してきたと考えていましたが、今になると、そのことで、苦しみを乗り越える力を私自身が養うことができ、独自の芸風を確立する力が与えられたのではないかと思い、感謝しています。粘土素材はものを言いませんが、焼き方を工夫していけば、こちらの意図が伝わって、素晴らしい芸術作品が実現することも分かりました。また、芸術作品は、それを使用する目的、使っていただける方のことを思い浮かべながら作成すれば、結果的に美しい作品が生まれことも分かりました。例えば、作成したお皿に、焼き魚が盛られてる姿を思い浮かべながら、その使われている姿を美しくするお皿の形状や配色などを考えることが重要だと思っています。つまり、新人には、作り方を直接教えるのではなく、色々と自分でトライしながら、自ら工夫することの方が大切であることを教えていきたいと思います。」と結ばれました。

無味乾燥な粘土であっても、愛をこめて人が息を吹きかければ、機能美が盛り込まれた芸術品に生まれ変わることができることを教えられました。会社などの新人教育でも、会社が営々として築き上げてきたノウハウ集(基準書や標準マニュアル)を教えるより、難しい課題を与えて自ら解決する手法を編み出す訓練をした方が、創造力が養われ、優秀な人財が育つと言われています。
 
講師を引き受けて下さった河村 氏は、MS直後に用事が入り、残念ながら朝食をご一緒することはできませんでした。



「オリーブの木」では、本日のセミナーの余韻を楽しみながら、河村氏に感謝しながらの朝食でした。参加者が一人1分程度で感想を述べあいました。独創的な発想で、個性を伸ばし、独自の境地を切り開いて来られた河村 氏の真髄を垣間見ることができたような気がしました。(平松健男 記)

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