2014年2月7日金曜日

作曲者偽装事件

                            
                           

作曲者偽装事件

聾唖作曲家を自称する佐村河内(さむらごうち)守 氏が、作曲したのは別人(桐朋学園大の新垣 講師)であることを打ち明けました。新垣 氏によると、佐村河内 氏の耳は聞こえているということです。

これが事実であれば、私達皆(日本国民)が騙されていたのです。

日本人は礼儀正しく、おもてなしの心を持った美しい民族で、大震災のときにも互いに助けあった素晴らしい国民だという評価を信じていいのかどうか。今回の事件は、国際的にも、日本人全体のイメージ・評価を著しく貶めてしまったのではないでしょうか。

真実を隠蔽すれば、嘘が嘘を産むことになるのは明らかです。最初の嘘は軽いのでしょうが、その小さな嘘が次の嘘を産み、次第に増幅するのが常です。

ところで、交響曲「広島」は、音楽的にベートーベンの交響曲に匹敵するほどの価値が本当にあったのでしょうか? 被爆2世や聾唖者というハンディキャップ用語を最大限に利用し、お涙頂戴式手法で国民を欺いてきたのではないでしょうか。予想以上の人気に慌てて真実を語ることになったことは、せめてもの償いなのでしょう。

交響曲「広島」は、ベートーベンの交響曲とは較ぶべくも無く低レベルの曲だと酷評している作曲家もいます。それが正しいとすれば、日本人の音楽の評価レベルも疑われます。

音楽性の無い交響曲も、音楽とは無関係な群集心理的人気さえ出れば、価値ある音楽に変質するという、嫌なロジックが顔を出します。新垣 氏は、佐村河内 氏から20曲以上の作曲を委託され、約18年間で計700万円ほどの報酬を得ていたようです。ヨーロッパにおいても、クラシックの曲を作曲した著名な作曲家の殆どが、赤貧洗うが如しの生活だったようです。日本でも一部の音楽家を除いて、力のある音楽家が苦しい生活を余儀なくされているのが実情でしょう。

しかし、何よりも音楽を愛し、聴衆の悦びを我が悦びとすることができることに生き甲斐を感じるのでなければ、音楽家への道を歩むことはできないと思います。

戦後の教育は、知育に偏重し、徳育が軽視されてきました。戦前の徳育が、どちらかと言うと、個人の人権や創造性よりも、国家の方針を優先させ、個人のモチベーションの方向を、国益本位に向かわせたことへの反省から、道徳感の醸成は個人に委ねるという考え方に移行し、学校での徳育が軽視されてきました。

有名大学の卒業生が、自分の利益追求のために就職先を決め、既得権益確保を最優先とする職場にしがみついている姿を見るにつけ、知育偏重教育のなれの果ては、国家(人類)の崩壊に繋がっていくように思います。
 
今回の作曲者偽装事件は、戦後教育の欠点が大きく現れた結果だと思えてなりません。強制されない倫理の本道を歩む者になりたいと思います。

文責:広報委員長 平松 健男

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